2011年07月01日

ビントレー1年目の終了と新国立劇場バレエ団の変化

新国立劇場バレエ団は、芸術監督にビントレーを迎えて最初のシーズンを終えようとしている。この間、どういう変化があっただろうか。

目ざとい人なら、今シーズンから、公演チラシやプログラム表紙の上部に「NATIONAL BALLET OF JAPAN」というロゴが入っているのに気づいていることだろう。「こんなもの、どうせデザイン上のことで、正式な名称ではないに違いない」と思うのが普通だろうが、意外や意外、新国立劇場の英語サイトを見てみると、英文名称自体が「National Ballet of Japan」に変更されている(http://www.nntt.jac.go.jp/english/nbj/index.html)。昨シーズンはどうだったかよくわからないが、少なくともしばらく前は「New National Theatre Ballet, Tokyo」が正式名称だった(http://web.archive.org/web/20080124012945/http://www.nntt.jac.go.jp/english/season/ballet/index.html)。「National Ballet of Japan」を仮に「日本国立バレエ団」と訳すとすると、日本のバレエ関係者の長年の悲願だった“国立バレエ団”が、鬼っ子のように、こんなにひっそりこっそりと誕生していたことになり、憐憫の情を禁じ得ない。

この名称はいったいいつから使われているのか。ビントレーになる前も、2009年9月に『椿姫』をボリショイに持って行ったときには、現地の垂れ幕で使われていたらしい。ぐぐって見つかった最古の用例は、2007年の個人ブログだった(http://www.cranfordchronicles.com/2007/12/12/composer-carls-cranford-shock/)。ただし、この用例を含むほとんどがビントレーがらみ。おそらくは、ビントレーが振付家として新国立に作品を提供していた頃から、ビントレーまたは彼と接触する新国立の担当者がこんな呼び方をしていて、ビントレーの芸術監督就任とともに大っぴらに使用することにしたのではないか。

もっとも、Nationalを何と訳すべきかは議論の余地がある。English National Balletや、The National Ballet of Canadaは「国立」ではない。逆に新国立劇場バレエ団についても、「国の直接雇用でなく独立の財団法人だから“国立”ではないんだ」と断言することもできない。ただ、言えるのは、たとえば韓国国立バレエのように、「これは国のバレエ団だ!」というはっきりした位置づけや身分保障があるバレエ団こそが、真に「国立」の名にふさわしいということだ。新国立劇場バレエ団は月給も出ないし、設置当初はそもそもバレエ団ですらなく、「新国立劇場バレエダンサー」という表記だった。劇場が個別に雇っているダンサーの集合に過ぎず、独立したバレエ団ではないという触れ込みだったのだ。そのくせ英文表記はBallet of New National Theatre, Tokyoだったりした。開場当初は「民業圧迫だ」とかいう声も強かったため、このようにごまかしごまかしスタートしたわけだ。そして、それほど間を置かずに、「バレエ団にふさわしいレベルに達したからバレエ団と名乗ることにしました」などとテキトーなことをほざいて、やっと「新国立劇場バレエ団」になった。思えば実に不憫な出自のカンパニーである。

しかしビントレーはそれを変えてくれるかもしれない。来シーズンからのプリンシパルが5人発表されたが、なぜ急に5人も昇格させたかというと、ビントレーが「プリンシパルがたった1人(山本隆之)のバレエ団なんて世界にない」と考えたからだと言う。ビントレーはもしかすると、新国立劇場バレエ団をグローバル・スタンダードに合ったバレエ団に変えるつもりなのではないか。今シーズン、来シーズンで小野絢子を大々的に押し出しているキャスティングも、今までみたいに「実力に関係なく公平に平等に」などというのでなく、芸術監督の主張を強く打ち出す姿勢の一環なのかもしれない。名称の変更を、その路線で考えることもできるだろう。

強く期待するのは、ダンサーに月給を出してほしいということである。バレエ団の年間予算が25億円もあるのに、65人程度のダンサーに満足な給料を出せないのは、まったく理解できない。出演回数により支払われる現状では、毎回出演するコールドの方が、ソリストより収入が多いらしい。そんなバレエ団、世界にあるか?

今シーズンの大きな変化には、新国立劇場運営財団理事長の交代というのもある。2期6年にわたり権勢をふるった遠山敦子がこの3月でめでたく退任し、福地茂雄が跡を襲った。遠山については朝日新聞の記事が詳しい(http://www.asahi.com/politics/update/0105/TKY201101050330.html)が、観客にとっても、年々チケット代が上がり、安い席が少なく遠くなっていく、公費で記録した公演映像の公開がいつの間にか中止される、プログラムが値上がりするなど、本当に本当に、遠山はイヤ〜な雰囲気を劇場全体に漂わせる達人だった。彼女の最大の功績は、まさに退任したことである。ここのところ劇場スタッフの表情が急に明るくなったような気がするが、あながち気のせいばかりとも言い切れまい。遠山体制では変革など望めない。プリンシパルの増員すら、支出増を伴うので、まず無理だっただろう。

もっとも、後任の福地茂雄にも問題はある。福地はアサヒビールの名物社長だった人で、経営手腕もあるし、メセナにも詳しい。能力的には素晴らしいのだが、企業メセナ協議会理事長、東京芸術劇場館長との兼任というのが気になる。特に、国立と都立の2つの劇場のトップを同時に務めるというのはどうなのだろうか。純粋にワークロードだけ見ても大変だろうし、運営方針が異なるはずの2つの劇場を1人が見るというのは、あまり適切とは思われない。天下り常務理事にいいように操られるなどということは、福地に限ってはまずあるまいと思うが、それでもやはり心配だ。

一応記録のために、些細な変化についても言及しておく。今シーズンから、4階2列目の席に、座高補助クッションが標準装備された。また、ごく最近、開演前の英語アナウンスが刷新された。地震時の注意が主な変更点だが、身の乗り出し注意のところも、以前のアナウンスでは「あれ?」と思うところがあったのが改善された。アクセントはややアメリカンになった。


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2011年07月22日

ABT『オープニング・ガラ』

2011/7/21 Thu. 18:30 東京文化会館

二人いるピアニストのうち、ノイマイヤー『椿姫』3幕パ・ド・ドゥ(ジュリー・ケント/マルセロ・ゴメス)とウィールドンの『Thirteen Diversions』でピアノを弾いたイーゴリ・シェヴツォフがすごい。音の粒立ちがどうこうと言うより、とにかく楽器が全身全霊で鳴っている。とうていオケピットで鳴っているとは思えない。舞台上でたいしたことが行われていない(ジュリー・ケントもそこそこいいが、先日のアイシュヴァルトとは比べられない)こともあり、オケピットの方ばっかり見てしまった。

してみると、こないだルグリBプロの同じ『椿姫』(2幕パ・ド・ドゥ)で聞いたピアノって一体何だったんだ? ずいぶんモゴモゴした音がするが、まあそんなにひどくはないなと思っていた。だがこっちを聞いてしまうと、もう同じピアニストとは思えない。出てくる音が違いすぎる。ボリショイから指揮者が来るとき、ハーピストを連れてくることが一時期よくあって、「なるほど日本にはいいハーピストはいないんだな」と思ったものだったが、ピアニストまでいないとは知らなかった。

現在のABTがどんな状態かは全幕で群舞を見てみないとなんとも言えないが、ソリスト陣はかなり充実している。『アレグロ・ブリランテ』のアンサンブルを見ても、みなアメリカンなりに体の使い方がちゃんとしていて、ちょっとびっくりした。

男性は特に充実した時期で、『アレグロ・ブリランテ』のコリー・スターンズは美しい姿態と端整なテクニック、『ディアナとアクテオン』のカレーニョも、引退するとはとうてい思えないダイナミックさ、『チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ』のコレーラも鮮やかな切れ味。

女性もなかなかで、『アレグロ・ブリランテ』のヘレーラも、大きな踊りはそのままに、ずいぶん折り目正しくなった。『ディアナとアクテオン』のレイエスなんて、内心もうトシかと危惧していたのだが、キューバ人はすごいなー。サイボーグでもこんなにはできないだろう。最近はポワントを棒高跳びの棒のように使って、オフバランスになるまでの間がアラベスクのバランスでござい、ってなダンサーが(特に日本には)多いのだけど、レイエスは一息で大きくポワントに乗って、そのままそこで静止するのですよ。物理法則をねじ曲げてる。コーダのグランフエッテに至っては、1回まわっては“シェー”ピルエットのダブルというのを、いささかもぐらつかずに数回繰り返し、そこからサポーテッド・ピルエットをカレーニョが「いつもより多く回しております」とやって、片手だけ添えて惰性で数回転、ときたもんだ。いや本当にお見それしました。テクニシャンとはこういうのを言うのだ。最近の変な宣伝のおかげでタマラ・ロホが回り物のスペシャリストだなんて思ってる人は、本当に認識を改めてほしい。タマラのよさはそこじゃない。もっとも、レイエスもただの技術屋ではなく、演劇性にも優れている。だからこそ今回、一人だけ『ドン・キホーテ』とともに『ロミジュリ』も踊るわけ。

『チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ』を踊ったイザベラ・ボイルストンも相当なものだ。腿がよく動き、膝を常に高く使える。曲が少し速めだったので、多少蹴りながら踊っていたが、たとえばガルグイヤール(跳んで両脚ロン・デ・ジャンブ)も、膝を高く上げる時間がなくてもロン・デ・ジャンブはきちんとやるという風に、ものすごくきっちりした人。バランスを崩したところが一箇所あったが、シンシア・ハーヴェイ以来の偉大なアメリカ人バレリーナになることは間違いないだろう。

振付について。ラトマンスキー版『くるみ割り人形』はちょっと中途半端。テクニカル方向に振るなら、香港バレエのジェフリーズ版の方がやり切っている。ウィールドンの振付は動きの流れがなく、ポーズの連鎖だけ。ビントレーのダメな作品群(『エドワード2世』とか)に近いものを感じた。ミルピエも同じような印象。そのへんがヨーロッパの新作バレエとの違いなんだと言えばそうなんだけどねえ。
posted by cadeau at 18:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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