2015年01月12日

今次テロについての雑感

自由主義世界で「言論の自由」と言うと、一般には「正当な言論」が保証されるという意味であり、そうでないものは名誉毀損などとされて許容されない。だが(いわゆる)風刺画を見る限り、シャルリ・エブドの基調は、正当とそうでないものの区別を否定し、すべてを相対化して笑いのめすという態度だと思われる。

言わば、敵を倒すついでに味方も倒してしまうという昔の映画のギャグとか、殺人が人類最大のタブーであるがゆえに、大した理由もなく(あるいはうっかり)人を殺すシーンを一種のギャグとして映画や演劇の中で使ったりするブラックな笑いに近いものだ。

これはある種の“高度”なギャグで、「笑えない」と眉をひそめる“良識派”が一定数いることが、この笑いには組み込まれている。“良識”こそが真っ先に相対化と揶揄の対象となるからだ。愚鈍な“良識派”を前衛が笑うという構造と特権意識がここにはある。愚かだと思われたくなければ支持するしかない、というわけだ。

したがって、この種の笑いに対しては、理解を示さない層、反感を持つ層が必ず一定数いることになる。そうした人たちの理解を求めることは、原理的にできない。ギャグが笑える理由を説明してしまったらもう笑えない。理解を求めるのでなく、反感を乞うのが彼らのコミュニケーションのスタイルなのだ。

だから今回の事件は、いい悪いとは別に、想定される必然的な帰結の一つと言わざるを得ない。

今回の不幸はどうすれば避けられたのか。知識人がシャルリ・エブドの笑いの構造をきちんと分析し、批評し、読者がどのように受け取るべきかを解説し、“良識派”の立場から同紙の“行き過ぎ”を警告していればよかった。“愚かな良識派”と思われることを恐れるべきではなかった。

それはシャルリ・エブドにとっても願ったり叶ったりのはず。もともと相対主義者なので、「言論は自由、批判はすべて失当」という立場に立つのは本来おかしい。愚かなはずの“良識派”の鋭い批判との緊張関係の中こそが彼らの正しい位置だったはず。「言論の自由」の美名の下に放任されたことが言論の死を招いたのだ。


posted by cadeau at 13:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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