2004年08月20日

ニブロール『NOTES』

相変わらず、顔に力の入った子たちが、力みまくった動きで、叫びながらうろつき回るパフォーマンスで、退屈だなあと思いつつ、ときどき寝ながら見ていたが、矢内原が出てきて以降、少し違って見えてきた。

矢内原は高校、大学とゲンダイブヨウをやってきたので当然ダンサーとしてのスキルを一応は持っている。そのため矢内原だけはきれいに力が抜けていて、他のパフォーマーとは違う風景が見て取れた。彼女がやっていたのは、いわゆるダンス的なムーブメントではなく、かといって引き出しを開けるような日常的な機能性をまとった動作でもなく、その中間の、いわば仕草と呼べる領域の動きだった。それはたとえば、頭の横で指を立てた腕をくるくる回すとか、適当な方向に向けて指をさすとかいう動きなのだが、ここで大事なのは、指さしてもその先に何かがあるわけではないということだ。そういう意味性は肯定も否定もされず、ただ通過される。ここでは指さす仕草そのものが興味の対象なのであり、そういう意味で、自分の身体を認識し始めた頃の幼児に似ている。

この矢内原自身の動きが、矢内原が狙っている動きでもあるのかどうかは必ずしも定かではない。というのは、それが狙いなら、矢内原と同様そうした動きができるようなダンサーを連れてくるはずなのに、実際にはそれができないパフォーマーを使っているからだ。矢内原が多少ダンスがうまいとは言え、ゲンダイブヨウにイノチをかけてきたようなダンサーはいくらでも(首都圏だけでも数千単位で)いるわけで、矢内原程度に踊れるダンサーを見つけるのは自販機でコーラを買うより易しい。あまり踊れすぎてはダメとか、ゲンダイブヨウに染まりすぎてはダメ、ちょうど矢内原ぐらいがいい、という条件をつけても、コーラがドクターペッパーに変わる程度のものだ。

だが仮に、矢内原自身のやっていることが矢内原の狙いだとして、残りのパフォーマーの動きを脳内で修正して見てみると、ああなるほど、と何となく納得できる気がした。他のパフォーマーは顔に力が入りまくって、見ている方はどうしてもそこに視線が行くが、実はそこはどうでもいい部分だったのだ。仮にパフォーマーが仮面をつけたりとか顔を隠したりとかしてくれれば意図がかなりよくわかる、というか明確な表現になる。あるいはパフォーマーが人間でなく、ワイヤーフレームのアニメだったら、もっとよくわかる。要するに、『コーヒー』だったかな、先日の吾妻橋ダンスクロッシングでも映写していた、人形が歩きながら、落ちてくる果物を撃つスクロールゲームのアニメがあったが、ああいうのを3Dでやれればベスト、ということだろうか。

ワイヤーフレームと言えばカニングハム。カニングハムはソフトウェア上でワイヤーフレームの人形を踊らせて振付を決め、人間にはそれをなぞらせる。人間を可動部分のあるオブジェクトとしてしか見ない、そんなカニングハム爺さんに比べれば、どこまで行っても人間の仕草がベースにある矢内原はそこまで非人間的ではないと言えるだろう。だけどやっていることは、「ごめんなさい」を百回書くとだんだん字が字に見えなくなってくる(線や図形に見えてくる)というのと同じことを人間の仕草でやっているわけで、まあ相当に抽象度の高い話だ。

もしそうだとするなら、今までニブロールが“今日の東京に生息する若者のリアルな身体を舞台に乗せた”などと言われてきたのはいったい何だったのだろうか。リアルな、具体的な身体などでは全然ない。いつの時代の人間でも変わらず持っている仕草については、あることを意味するのに他の動きでなくその動きが採用された不思議さに目をしばたかせる。誰もしないけれど、しても不思議とは感じられない仕草については、それが偶然の動きでなく“仕草”と感じられることの神秘に驚く。そんな子供のような、しかし大人が抱いてもちっとも不思議ではない好奇心が矢内原の振付を作っていることになる。繰り返すがそれは、現代の若者の身体とはほとんど関係がない。むしろ、それから離れているからこそ、そこに驚きや新鮮さがあるわけだ。

作品自体には意味性を思わせる要素がたくさんある。パフォーマーは意味のある台詞を叫ぶし、意味のありそうな表情をする。しかし、意味は目くらましに過ぎない。ここでは、バトルアクションゲームのように、頭上に降ってくる“意味”を片っ端からよけたり撃ち落としたりしながらエンディングにたどりつくことが観客には要請されているのかもしれない。そうだとしたらちょっと意地悪だなあ、というか、それならそれでもう少しやりようがありそうだ。

ちなみにこの日は“ややウケ”。ざっと見渡したら拍手している人数は全体の半分くらいで、それほど勢いよく叩いているわけでもなく、さっと収まった。ニブロールについては、トウキョウの若者に熱く支持されているとか言うのはほとんど、悪意のある嘘に近い。しかもこの傾向は今回だけのことではない。

私にとって、ここに書いたような理解の下でなら、ニブロールはこの先ちょっと興味深く、いま一般に言われているようなもてはやされ方の下では、ちょっとつまらない。いずれにしても、私自身に関して言えば、自分にとって面白いように見るだけだからどうでもかまわない。だがもしも一般のお客さんの素直な受容を阻害する要因があって、その結果つまらないと思われてしまうのだったら、それを取り除く努力はすべきだろう。パフォーマーのセレクションを考えるとか、“状況”は利用すればいいなどというスケベ心がもしあれば捨てるとか、そういうこと。
posted by cadeau at 23:16| Comment(2) | TrackBack(0) | コンテンポラリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
まねきねこさんのサイトでポストトークの覚え書きが公開されてます。すばらしい記録力!
<a href="http://homepage1.nifty.com/mneko/play/NA/20040821m.htm" rel="nofollow">http://homepage1.nifty.com/mneko/play/NA/20040821m.htm</a>
Posted by 手塚 at 2004年09月05日 21:51
手塚さん、どうもありがとうございます。ねこさん相変わらずすごいな。
ご教示のところ読むと、北川フラムは衣装が突出していいと思っているんですね。衣装がいいかどうかはともかく、衣装を見せるためのもの、ファッションショーみたいなものとして見ると、たしかにとても得心がいくところがあります。限定しすぎな気もするけど、新たな視角を得た気がします。
Posted by 門 at 2004年09月08日 01:31
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