2013年10月01日

ボヴェ太郎『 implication ― 風景として響きあう空間と身体― 』(2007)舞台評再録

2007年にCorpusという同人誌に寄稿した、 ボヴェ太郎 の『 implication ― 風景として響きあう空間と身体― 』 という作品の舞台評を再録します。

ボヴェ太郎『 implication ― 風景として響きあう空間と身体― 』

 暗闇の中に刷毛で掃いたようにごく淡い光の帯がかかっている。さしわたし一メートルほどだろうか、わずかに幅を広げながら右から左下に弧を描いている。そこに横向きに立つ黒衣の人。両腕を上下に開き、その指先がオレンジ色に浮かび上がる光の上辺と下辺にそれぞれかかっている――
 ボヴェ太郎(本名である)は八一年生まれ。〇三年のトヨタ・コレオグラフィー・アワードで決選に残ったことで知られるようになったが、それでも一部の注目を集めたにとどまり、今に至っても認知度が高いとは言えない(どちらかと言うとかなり低い)。誘いに応じてかつて一時期を過ごした京都に戻った背景にはそうした事情もあるのだろう。いまは伊丹アイホールのテイク・ア・チャンス・プロジェクトの共同製作アーティストに選出されており、今回の公演もその一環である。
 ボヴェはいつもと同様に、足元まである黒い長衣を着ている。独特の動きを生むのは大きく広げられたしなやかな腕。一方の指先から肩を通って他方の指先へと続く線が螺旋状のS字型をしている。胸を突き出し、引いた腰を少し落とした姿勢の全体も、片方の肩から床まで流れ落ちる、マニエリスム的な蛇状曲線のていをなす。長衣のかげの細かいすり足に導かれて、絶えず変動するそれぞれの曲線を動きの力線がたどるにつれ、流麗でどこまでもとどまらない独特の動きがそこに現れる。それらの三次元曲線は、囲まれた空間を体にまといつかせることで、身体の空間を拡げてもいる。
 こうして生み出される滑らかで継ぎ目のない動きには麻薬的な効果がある。短剣を持って舞う踊り手に見惚れているうちに、気がつくと剣が喉元に擬せられているという、暗殺をこととするモロー族の舞い(*1)もこのようなものだったかと想像する。ときおり肩が押しとどめられて運動に変化が与えられるが、それは踊り手の作為というより、動きが「底」に突き当たったための反転と見える。
 今回の使用曲はバッハ、クープラン、ラヴェル、アルヴォ・ペルト。ボヴェはその場で鳴る一音を純粋に響きとして聴こうとする。ボヴェの狙いは、体が外界のものや人、それに音や「間」との関係により動かされることである。このため自身の身体に対するコントロールも可能な限り排される。踊りを「作る」のでなく、場の「ゆらぎ」がそのまま動きになる。
 深瀬元喜とボヴェ自身による照明、美術もこの思考と一体である。わずかな明かりに頭と肩の輪郭だけが浮かび上がるボヴェ、天井まで一面に広がるモアレ模様の前の薄暗がりにたたずむボヴェ――舞い手は時空間の流れにいっとき浮上した泡であるかのようだ。流れの中から浮かび出て、しかも流れと別物でない。
 ダンス公演の数が極端に多いいまの首都圏では、流行に乗らないダンスは単に埋もれて終わる。こうした重要な舞踊家を丁重に遇することができる関西の状況に、ある種の羨望を覚える。(七月十四日)


(*1) 佐藤史生『夢みる惑星』に登場する架空の踊り。

初出:『Corpus no.3―身体表現批評』(2007/10)


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2011年11月06日

AAPA『足跡』

AAPA『足跡』
黄金町かいだん広場
2011/11/5 Sat. 18:00

AAPAは映像、音響、美術、台詞、動きなどが混然とした不思議な空間を作るグループだと思っていたが、今は転換期らしく、今回の作品では永井美里が振り付けたダンスが前面に出ていた。
会場はガード下ながら船の甲板のような木の床の空間で、和紙のようなシートで外界と区切られている。観客は靴を脱いで上がる。ペットボトルやコップ、クッション、Zライトなどが散乱していて、観客は好きなところに座る。こうしたことから、一応屋外ではあるが、室内という感じが強かった。
ところがそこでいきなりダンスダンスした踊りが始まる。6畳間的な日常空間にエスタブリッシュされたダンスは不似合いで、「あれ?」と思った。しかも途中で外歩き用の服を着て靴を履いたダンサーも加わる。そっちは動きもドタンバタンとうるさく、室内にゾンビが闖入してきたかのようだった。一方、靴を履いていない永井ともう一人は、少し長さのあるシークエンスをユニゾンで繰り返す。室内というイメージが強いので、この部屋に思いを残した地縛霊(部屋の精と言ってもいい)の動きが無限再生されているような感じになる。
終盤に永井が一人で踊るのだが、そのときにはペットボトルなどは片付けられ、日常性が薄まっている。永井も一枚脱いで部屋着のような衣装になっていて、イメージが収斂した感じ。何度か永井自身が「私の顔が見えるところに来てください」と繰り返すのは、物理的に観客を正面に誘導すると同時に、観客との親密性を高める効果があった。もっとはっきり言うと、(私の場合ということだが)ただ自己完結して無限再生されるだけでは不満で、後の住人に伝えたいことがあるんだな、地縛霊なんだなあという感じを受けた。
この地縛霊というイメージは、なんとなくそう思っただけだが、AAPAのサイト・スペシフィックな作品傾向となんらかつながるのかもしれない。≪ゲニウス・ロキ≫みたいな概念を仲立ちにして。
踊りについて言えば、振付よりも永井個人の魅力が大きい。他のダンサーが踊っていても、それを見てどうとはあまり思わない。逆に言うと、そういう一種の無色透明さが、AAPA作品の中に踊りが占める位置という点で、うまく働いていたのだなと思う。
空間全体を構成する作風としては、AAPAの上本竜平のほか、ボヴェ太郎や酒井幸菜の名が挙がるだろう(もう少し広く見ると、藤本隆行、梅田宏明らも)。ボヴェや酒井は神奈川総合高校出身で、この高校がそういう校風なのかと思っていたが、永井美里は同校出身でもダンス指向が強い。やはり同校出身の木村愛子もダンス指向だが、それは桜美林出身だからかと思っていた。同じカナソウでもけっこういろいろなんだなあと興味深かった。いや、もしかすると永井も、ボヴェみたいに全面ダンスでありながら全面美術作品、みたいな方を目指しているのかも。もしそうなら、踊りの無色透明さをもっと突き詰めていく方向になるのかな。
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2011年08月30日

サイトウキネンフェス/『中国の不思議な役人』『青ひげ公の城』

8月23日(火) 19:00 まつもと市民芸術館

『中国の不思議な役人』はストーリーをきちんと追うし、「娘」を情の濃い少女に設定しているため親しみやすい。悪党を「娘」の三人の家族にしたのも、すっきりしていい。作風は、最近の見世物小屋路線でなく、『Play2Play』まで戻ったかのような、ムーブメントで見せるタイプ。大きめの座卓のような赤いテーブルを隠れ場所として使う振りがおもしろい。金森作品の中でもいい方だと思う。

金森にベジャールの影響を見る人がいるが、少なくともNoism以降の作品でそう感じたことはない。だいたいベジャールだって作風がずっと同じだったわけじゃないし、「どのベジャール?」って訊きたくなる。これだって、ベジャール版よりは断然おもしろい。赤いテーブルを使うのがベジャールへのオマージュだとしても、内容的にはほぼ関係がない。

ただ「役人」を“国家のための生け贄”と解釈したのは、世界に売り込んでいく上で障害になるかも。原題を英語で書くとThe Miraculous Mandarinだが、Mandarinは清朝の高級官僚。科挙に受かることだけに血道を上げ、役人になった後は実務に興味を示さない中国の高級官僚は、歴史的に腐敗の代名詞。役人になるのは一族の繁栄のためであり、私利私欲に走って当たり前だ。そもそもこの作品は、その強烈な欲望追求姿勢の不気味さを際立たせることで成立しているわけで、「国家/社会に身を捧げる生け贄人形」(プログラムより)として、家族のために自分の身体を捧げる「娘」と対置する解釈はかなり無理がある。「Mandarinというタイトルだが、どこにでもいる小官吏に読み換えた」と開き直れば通らないこともないが、迫力が薄れるよね…。

『青ひげ公の城』は青ひげ公と新妻が出ずっぱりで歌い交わすだけだから、それほど飾らない演出が普通と言えようが、今回はパフォーマーをかなり入れ込んでいて驚いた。それがまた効果的。『Play2Play』のようにハーフミラーっぽいV字型の高いスクリーンを動かして空間を開閉していた。ゲルネ、ツィトコーワ、サイトウキネンオーケストラ、いずれもスーパーなレベル。小澤の名前があれば一流の人が来てくれるということ。

『中国の不思議な役人』は装置の奥行きが深いし、コーラスも必要なので、国内ではほかに新国しかできないだろうが、新国は『青ひげ公の城』ともどもプロダクションごと買うべき。本当におもしろい。
 
ただ、深く感動したかと言うとそうでもないかな…。どちらの作品とも、本当にやりたかったことは、金森は『NINA』でもうやっちゃったんじゃないかな。
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2010年09月18日

神村恵 × 大倉摩矢子 『尻尾と牙とまた尻尾』

2010/9/17 Fri. 19:30 Art Center Ongoing ¥1,500

お話しして各自動いてみてまた話すという形態の、実験をそのまま見せる試み。詳細は神村のブログ参照。
作品を作るとき、大倉は長い年月をかけて「これだ」と思う動きを組み合わせていくが、神村は、振付を固定してそれをなぞる形式になることに強い抵抗があるようで、場面場面を「パラパラ漫画のように」イメージしてそのつなぎ方は現場での生成にまかせる ― そういうことらしい。そんな理解で、日常的な動作を実行してはやめ、実行してはやめるといった、初期のポストモダンダンスかハプニングのような神村の動きを見ると、「なるほど」と思わないでもない。
それに対して、大倉の踊りを見ていると、起承転結というか、適当なところで盛り上がって終わるといった、わりと普通っぽい構成があるようだ(即興要素が強くなればかなり薄くはなるが)。「これだ」体験をまるで天啓のように信頼することで、「決まった振付/構成をなぞっていくようなことでいいのか」という問題をとりあえず意識外に追いやることに成功していると思われる(それが悪いと言うのではなく)。
踊りが振付の再生になってしまったらつまらないと神村が考えているとしたら、その懸念は深く理解できる(もっとも、振付の再生でかまわないという言い方をする人がいたら、それも理解できる)。ただ、今までの神村の踊り(というかパフォーマンス)を見ると、神村はその問題圏に幽閉されてしまっており、その外側まで目配りできていないように私には思える。夫/子ども/客に温かい食べ物を提供したいと思う妻/親/料理人が、自分の作る料理が「温かい」かどうかだけを考えて料理するとしたらおかしなことではないだろうか。温かいかどうかは、おいしい料理を提供するという最終目標との関連で問題になるだけだ。

さて今回の企画は、「私はこんなイメージで/意図で、踊る/踊った」という作り手の作意が観客に対して語られるという点でも興味深かった。事前にも事後にもある程度の情報が与えられるのだが、それとパフォーマンスを実地に比較すると、作り手の作意と、成果物として生じるパフォーマンスの間には、通常なんらの関係も見てとれない(関係が存在するとしても見えない)と認めざるを得ない。情報からダンスを逆にたどって「これはこういうことか」と比定して楽しむというのも、それはそれで風雅な遊びではあろうが、目の前で行われるダンスを見るのは、それとは確実に異なる体験である。ダンスを見て直接的に感じる面白さ(「面白さ」という語に問題があるなら「趣」でもよい)は、往々にして作り手の作意とは違うところに見出される。というか、芸術家のイメージはぶっ飛びすぎていることが多く、そんなものはそもそも、一般人たる観客には共有できなくて当然だ。ダンスは、少なくとも作り手の作意に存在するのではなくて、踊られたパフォーマンス、またはそれを受け取った観客の中に存在すると考えるよりない(まあ「どれをダンスと呼ぶか」という“教義”の問題かもしれないが)。

さてパフォーマンスの感想だが、神村の「パラパラ漫画」的パフォーマンスは、不快でも嫌でもないが、私にはそれほど面白くないということを再確認した。考えオチというか、コンセプトだけ聞けば、実演を見る必要は必ずしもない気がする。大倉はその点、目の前で動きを見ているだけで面白いのだが、話まで聞くと、動きをイメージに追いつかせるのはまだ容易なことではない気がする。「対象物と一体化する」とか、物理的に無理ですから。だが、そのへんを何らかの手段で解決できれば、さらに面白くなるのだろうなと思う。
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2010年09月13日

ボーダレス・カフェ「梅田宏明×乗越たかお」

USTREAMで配信された、あいちトリエンナーレのボーダレス・カフェ「梅田宏明×乗越たかお」。なかなかおもしろく、興味深いものでした。というわけで見ながら取ったメモを公開します。

※これは発言を忠実に記録したもの(いわゆるテープ起こし原稿)ではありません。実時間で聞きながらタイピングしているので、とうていそんな余裕はなく、それぞれの発言要旨をメモっただけです。だから誤りも多いだろうし(ご指摘や補足よろしく)、文脈がつながっていないところもあります。とは言え、自分でテープ起こしをしようという人がいたら、こんなんでも、ないよりはかなり役立つでしょう。それもこのメモを公開する動機です。これをもとにして(またはもとにしないで)、独自の発言要旨や発言記録を作って公開してくださる方がいらっしゃることを期待します。

ボーダレス・カフェ「梅田宏明×乗越たかお」
日時:9月12日(日)17:00
出演:梅田宏明(アーティスト)、乗越たかお(ヤサぐれ舞踊評論家)
司会:唐津絵理(あいちトリエンナーレキュレーター、愛知芸術文化センター主任学芸員)
海外のフェスティバルで活躍する梅田宏明と、海外のフェスティバルに足繁く通い、世界各地の芸術祭を知る乗越たかおが海外のフェスティバルの最前線を語り尽くす。

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乗越 フェスが増えてきたのは80年代。それに呼応する形でコンテンポラリー・ダンスが出てきた。梅田さんの目から見てあいちトリエンナーレはどう?
梅田 ふところ深いフェス。僕みたいな微妙な立ち位置のアーティストがやらせてもらえるところは多くない。
乗越 梅田さんは、初め2002年にバニョレの日本プラットフォームで評価され、審査員のアニタ・マチューにフランスに来いと言われて、バニョレの本選に出た。そのときはやりたいことができたのか。
梅田 日本でも公演したことがあまりなかったので、よくわからない。英語のメールに返信するのも1時間かかったりとか、四苦八苦だった。
乗越 それを見て、ほかのフェスからも声がかかった。
梅田 ブラジル、カナダなど。
乗越 フランス人はやることがうまい。海外は、新しい芸術ができるときに、ものすごい人と金を注ぎ込んで育てる。彼らは、自分たちがそれを生み出す力がなくなった後もマーケットをコントロールし続ける力がすごい。フランスも、各地に振付センターができたが、20年経つとそこから新しいものが生まれない。今は海外から新しいものが出てくるが、結局はパリのテアトル・ド・ラ・ヴィルで評価された途端にヨーロッパ・ツアーができる。これが日本に足りないところ。アジアにもフェスはあるが、日本は連携できてない。
梅田 僕は32歳。オランダとかではミックスメディアのフェスによく呼ばれる。僕のあとにDJが来てやったりとか。
 フランスのマネジメント会社と契約している。この会社はダンスらしいダンスのアーティストを抱えていなかったので、ダンサーを探していた。ヨーロッパとアジアではこの会社がブッキングしている。日本は自分でやっている。事務所の取り分は15%。これは日本では無理じゃないか。
唐津 日本では2〜3割だと思う。
乗越 そもそも元の金額が違うと思うよ。
梅田 フランスでは口コミが強いので、日本国内にいくら強い制作がいてもダメだったと思う。フランスはtwitterとかダメで、口コミ。
乗越 イタリアからつまんないカンパニーが来るとかいうときに、父親が金持ちなだけで来たりする。それは日本も同じで、フランスのディレクターから、日本から来るバレリーナKのプティ公演について聞かれて「父親が金持ちなだけ」と答えた。助成金取るのがうまいカンパニーとかあるし。
梅田 フランスは金注ぎ込むし市場をコントロールしているので、おもしろいカンパニーが世界中から集まってくる。
乗越 失業保険もあるしね。納税者が理解している。今回のあいちトリエンナーレが、アートを地元の人の生活の延長上においたのはとてもいいこと。
梅田 フランスだと、地方の小さな劇場に呼ばれても、地元の人が来る。老人と子どもしか来ないところもある。生活に密着している。子どもは素直で、25分の作品で25分笑ってた。
乗越 ヨーロッパはどこの国も世界に冠たる国だった時期がある。オペラハウスはその時期にできて、民族の誇りに直結。だから、その劇場が呼んだアーティストだから見に行くっていうのが大きい。日本にはそういう芸術の牙城がない。ベネチアビエンナーレではダンサーズ・オークションていうのをやった。落札すると1対1でパフォーマンスを見られる。
 日本で「食える」と言うのは、振付家が演劇とかのバイト仕事をしながら一人食えるのを言う。海外のようにダンサーに給与を払えない。3,000人動員するコンドルズでさえダンサーは別に仕事を持っている。
 ヨーロッパはEU圏でツアーできるから食える。日本ではせいぜい3箇所しか無理。だからアジアでツアーサーキットを作らなきゃ。韓国はフェスがすごく多いが、観光関連の予算が出てるから。梅田君はアジアは行くの?
梅田 韓国と台湾くらい。
乗越 海外のフェスではディレクターに強権がある。
梅田 僕は住民票は日本。ヨーロッパで雇われダンサーとして数年働けば、失業保険とかも出るが、そうはしなかった。これからやる人はその方が楽かも。
乗越 たとえばドイツのプロデューサーがフランスとベルギーの振付家とダンサーを少人数連れてきて、ヨーロッパ中まわす。これがリスクが少ない。ただしビッグネームの即戦力しか使えないから、早晩行き詰まるとは思う。梅田さんは国内で日本のダンサーを使って、とかやらないの。
梅田 たまにあります。今度はフランスでヒップホップダンサーとやる。日本のダンサーを使うか使わないかっていうと、使う。もっとも、ヨーロッパに行ってるダンサーってすごくたくさんいるんだけど、そんなにたくさん行かなくてもいいんじゃないかと思ってる。日本の中で評価される人もいる。本人が誰に何を伝えたいのかっていうのが重要。欧米のスタイルのダンスを学ぼうとしてもみんながうまく行くわけじゃないし、じゃあ日本から発信していくというのがいいんじゃないかな、と。
乗越 欧米に出て行けばいいってことじゃなくて、マーケットの問題。舞踏は日本のモダンダンスのマーケットから離反するところから始まったんだけど、80年にパリで再評価されるまではメタメタ。結局、マーケットの中で磨かれるってことがないとダメなんじゃないか。別に欧米のマーケットじゃなくてもいい。日本に、どうせ食えないんなら好きなことをやろうという人がいるのも頼もしいんだけど、その足腰を鍛えるためにマーケットが必要なんじゃないか。
唐津 日本の人は自分を追い込んで、ぎりぎりまであがくけど、ヨーロッパ人はそんなことをしない。作品への距離の取り方が違う。
梅田 僕は自分自身を見せることに興味がない。お客さんが何を感じるんだろうと言うことに興味がある。
乗越 自分の体を見せたいっていうのが日本は多い。「この体でしか踊れないダンスを見たい」ってのがあって、そこに、閉じた幸福な関係が成立している。日本そばとパスタの違い。
唐津 質問コーナーとかどうですか。

(先人の影響について。ダムタイプ、池田亮司とか)
梅田 影響を受けてる。映画なら塚本晋也、写真は森山大道、画家はゲルハルト・リヒター。彼は抽象、ミニマルと写実と両方やる。

梅田 浪人してるときに芸術に興味を持って写真を始めた。写真からダンスに行ったのは、写真を撮ってるとさみしくなるから。撮るときは、笑いたいのに笑っちゃいけないのが辛かった。
唐津 梅田さんは一人で作ってるから、それは孤独でしょ。
梅田 さみしいですね。打ち上げとかないし。

(音楽について。ノンビートの曲で踊るのは?)
梅田 実はあれけっこうビートが入ってる。わかりやすいビートでは25分持たない。だからアナログな時間を作る。
(音で影響を受けたのは?)
梅田 池田亮司さんとか。
(コラボとか?)
梅田 コラボは下手。
唐津 コミュニケーションとるのが苦手だからね。

(製作過程。何から始めるのか)
梅田 空間のテンションのようなイメージがあって、それに合わせて音や照明や映像を作っていく。作業としては音楽が最初。空間の抽象的なイメージをドローイングにしていって、それが楽譜みたいなもの。描かないときもあるが、けっこう描く。
(15分延ばせと言われたら延ばせるのか)
梅田 無理。なぜか知らないけど、僕はどの作品を作っても25分。マーケット的には1時間とか1時間半のものが必要っていうのがあるんだけど、僕は、じゃあ25分2本でいいじゃんと思う。縮めるのは、場合によっては受ける。

梅田 僕ははたちでダンスを始めた。一年間バレエやコンテやヒップホップのクラスを受けて、人に習うのは嫌いということがわかった。重心の使い方に興味を持った。それが僕は楽しくて。

(光を使ってたのは、写真をやってたのと関係あるのか)
梅田 写真をやってたのは、視覚芸術に興味を持っていたから。ダンスも、見る芸術ということで興味を持った。

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以下感想。
・ダンサーが食えるかどうかっていうのは私も常に心を痛めていること。ダンスが食えるか食えないかのモデルケースをいくつか示してやらないと若い子に気の毒だと思う。それで私もいろんな人に聞いて回ったりしているんだけど、なかなかズバッとは聞けないよね。乗越さんも、梅田さんが年間いくら稼いでいるかは結局聞けてない。ヨーロッパで活動している若手日本人ダンサーとしては伊藤郁女に次いで売れている彼が、いくらくらいの年収なのかはちょっと気になるところ。早い話、これだけ働いていい仕事して、製作費抜きで600万くらいだったらちょっと安すぎると思うが、さすがにそんなことはないでしょう多分。
・梅田さんは写真がさみしいから踊りに行ったというが、山崎広太さんも、上京して友だちがいないから、何かやろうと思って舞踏を始めたって昔言ってた。そんなことを思い出しました。
・コンドルズって動員3,000人しかないの? 全国ツアーやってるんだからもう少しあるんじゃないかなあ。キノコとカオスは2,000人くらいですかね。若いカンパニーは、ニブロールやBATIKでもそんなに行かないと思うけど、それは人気がないからじゃなくて、やってることが違うからだと思う。もっと若い連中はもっと小規模な公演形態を指向しているから、公演で食うのが原理的に難しい状況になっている。なんか考えないとなあ。
posted by cadeau at 21:51| Comment(3) | TrackBack(0) | コンテンポラリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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